エサ環境と「依存」
野生動物の被害について、いろいろお問い合わせをいただく中で、ご説明する際に一つキーワードとなる言葉があります。
それが「依存」です。
人間で言うと、〇〇依存症などといった言葉がありますよね。
依存 [いそん]
他に頼って在ること、生きること。人間の赤ん坊は、ほかの動物に比べてはるかに未成熟の状態で生まれるため、長い期間にわたって独力で生きていくことができず、周囲の大人、とくに母親からの扶養に頼らなければならない。これが対人関係における依存の原型である。子供は発育成長するにしたがって、自力で生活する領域を広げ、やがて独立した社会人として「自立」するが、これはかならずしも自分かってにふるまったり、「ひとりわが道をゆく」ことではない。われわれは、人と人とのかかわり合いの網目(あみめ)としての社会のなかに生きているのである。全面的な依存から出発した人間の成長した姿は、「ひとり立ち」ではなく、必要に応じ状況に応じて、お互いに依存しあう相互依存の状態である。
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
ここで言われる「他」は人であったり、物であったりします。
なぜ、サルの群れやクマが集落の柿の木にたかるのか。
なぜ、耕作放棄地がシカやイノシシの停滞場所になるのか。
なぜ、アライグマやハクビシンが空き家に居つくのか。
それら状況を説明するのが、「依存」です。
野生動物は、基本的に半日以上エサを探してうろいているのが日常です。そんなにすぐにはエサ環境が手に入れられるわけではありません。エネルギーと時間というコストをかけてエサを獲得する環境を探し求めています。
では、仮に、たわわに実った1本の柿の木があったとします。
すると、その柿の実がなくなるまで、動物はそこに通い続けます。「そこに行けばエサがある」というのは、コストを最小化できる最適な環境です。
では、その柿の木がある環境はどうでしょうか。
山の中か、山際か、集落の中か、市街地の中か。
人里離れた山の中であれば、鳥などによる種子が偶然散布されてできたものかもしれません。山際であれば、集落で利用していたが、高齢化や人口減で放棄されたものでしょうか。集落の中は日常的に人の往来があるところで、庭先に植えたのかもしれません。
お察しの通り、どのような場所で、依存が起こっているかによって、被害の深刻さの程度や今後の被害の起こり方が変わってきます。
依存を無くすにはどうすべきか、皆様はどうお考えでしょうか。原因となる柿の木を切ればいいか、毎年柿の実を収穫し続けるか、野生動物を追払うか、電気柵などで防除するか、そして、駆除するか。
依存の原因はどこにあるでしょうか。避けられない社会的要因でしょうか、対処できる地域の課題だったでしょうか。
被害対策に従事する際、野生動物の事ばかり考える視点は片手落ちです。地域の歩んできた社会や考え方、将来への意向、現実の直視、できること/支援があればできること/できないことのトリアージと、野生動物の動態を照らし合わせて考えることが重要です。人が暮らす社会と野生動物が暮らす場所、そのボーダーライン(むしろバッファー)をどう位置付けるかは、私たち人間側の責務です。
そしてまた被害があるから、駆除すればいい、そういう話もありますが、では、原因を残したまま駆除を続けるかというと、それは暴論に過ぎません。一定のルールを設けての駆除は考えられますが、「依存」を生み出す環境を残したまま駆除を続けるのは好ましくないと考えています。
だからこそ「依存」は何かを見つけておくことが被害対策で必要になります。

